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社会福祉法人 水仙福祉会
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理事長 講演録
(松村寛理事長、新採職員研修での講演録)

もくじ
大阪の社会事業
セツルメントの理念
制度化されていく社会福祉の中で
歴史に残る北市民館の事業
まず目の前の人の困難を助ける
日々の仕事を通して
補足

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 水仙福祉会の活動の理念については、日本全体の社会福祉の歴史との関係で理解をする必要があると思います。現在、ソーシャルウェルフェア、社会福祉という言葉が通常使われていますが、戦前はソーシャルワーク、社会事業という言葉が一般的でした。その社会事業の土台があって、社会福祉という広い概念で今の活動があると思います。

 皆さんの中でも学校で歴史を学んだ方々は、ある程度理解されていると思いますが、戦前の慈善事業とか、社会事業といわれていた時代は、誰が社会的に困難な人たちに対して力を注いできたかということを考えますと、それは全く民間の人たちで公の支援というのはほとんどありませんでした。そのことをまず土台に理解する必要があると思います。

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<大阪の社会事業>

 大阪は全国でも、社会事業発祥の地といわれています。特に施設がたくさん作られましたが、施設以外でも色々な活動が進められたところです。全国でも大阪は非常にユニークで、誇りのある土地と言えましょう。それは歴史を紐解いてもわかりますが、今の社会事業ないし社会福祉の歴史は、大阪の活動を除いては語ることができないくらい沢山の業績が残されています。大阪でそういう活動をした先駆者とか開拓者という人たちはどういう人たちだったのかをまず考えてみましょう。

 それには三つの特徴があります。まず第一に宗教的な色彩を持っているお寺や教会の人たち、宗教的なものは持たないけれど私財を投げ打った個人。そういう篤志家による活動というのが大阪では際立っています。

 二点目は、大阪は新聞社会事業の発祥の地です。朝日新聞とか毎日新聞、そういう新聞社が、厚生文化事業団、社会事業団を作って、報道以外で社会事業に力を注いだというのは、世界的にもユニークです。報道機関が社会福祉や文化活動をやっているということは、日本の新聞社の特徴と言えましょう。

 もうひとつ、三点目に、大阪の社会事業を作った人たちの中で面白いのは、警察官。戦前のおまわりさんがあります。というのは戦前のおまわりさんは、各戸別調査を進めていました。その家には誰が住んでいるのか、どんな仕事をしているのかという個別の台帳を警察官は持っていた。日本では犯罪を犯してもすぐにつかまるというくらい、駐在所のおまわりさんは地域の動向をつかんでいたのです。毎年定期的に戸別訪問して、その人はまだいるかいないか、違う人がいればどこから来たのか、全部調べて台帳に載せていた。今はプライバシーを侵害するということでそういうことはしないですが、おまわりさんが各家を廻るということはその家の実態をつかむということになります。食べるものもない、明日の生活もしんどいという家庭の実態を、自然と自分の目で見て肌で感ずるということがあって、おまわりさんも同じ庶民の一人として何とかしてやりたいという気持ちに駆られるわけです。今のような豊かな時代ではなくて貧しい時代でしたから、餓死寸前の人たちもたくさん発見したことでしょう。そういう人たちを何とかしたいということで、今大阪にあるホームレスの人を集めて支援している施設や、母子寮もそうですが、その前身は警察官が自分の私財を投げ出して作ったものです。

 こうした三つの特徴を持っています。一番多いのは篤志家の人たちだったわけですが、その篤志家の人も私財を投げ打ってやった。そしてその地域に住む困っている人たちの相談に直接乗ったり、いろいろな援助をしたりしてきたわけです。今大阪にある古い施設、歴史のある戦前からの施設というのはみんなそういう形で作られてきたものですが、また文献などを皆さんもお読みになったらいいと思います。
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<セツルメントの理念>

 その活動の根拠になっているものに、セツルメントの理念というか精神というものがあります。
 セツルメントの歴史について簡単にお話しましょう。1870年頃、イギリスで産業革命が起こって、沢山の労働者が農村から都市に流れ込みました。一方で所得格差によりたくさんの貧困層を生み出しました。その人たちがロンドンのイーストタウンといわれているスラム街、大阪で言えば釜崎のようなところを作って生活をしていました。困窮者の人たちが固まっていくわけです。社会不安もそこを中心に起きるわけですが、ご存知のチャップリンも小さいときに過ごしたというところです

 ロンドンの貧民街、スラム街の救済活動に立ち上がったのが、当時のオックスフォード大学の学生です。バーネットという教会の神父さんでもあった人が中心になって、そこに住んでいろいろな救済活動をやりました。今もそこにトインビーホールというセツルメントの施設が残っています。トインビーというのはバーネットの友人で、学生が救済活動に立ち上がることを提起した人です。経済学者だったんですが早くに亡くなったために、その人の名前を取ってセツルメントの施設を作ったわけです。そこで授産活動をしたり子どもの学習塾を開いたり、医療面では診療所を設けたりしました。

 その活動が世界に広がっていったのです。日本の人たちも当時は日英同盟といってイギリスと同盟を結んで仲良くやっていたという関係もあって、どんどんイギリスで学んで日本に持ち帰るという時代でした。日本も貧困問題をたくさん抱えて、町に困っている人があふれてスラム街もいっぱいあった時代ですから、学んで取り入れるわけです。大阪にもセツルメントの施設があちこちに作られて、拠点になって残っています。

 トインビーホールにはいろいろな日本人が見学に行っています。芳名録のようなものが残っていて、戦前からの有名な人たちの名前が載っています。見学した人が感動して日本にセツルメントの思想を持ち込んで、国内でも刺激になっていきました。これを日本では隣保事業と呼んでいます。大阪ではいろいろな活動があって、社会事業の施設としたきちっとした形でなくても、空き家を利用したようなものでもいろいろな形で進められたと言えます。
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<制度化されていく社会福祉の中で>

 こうした沢山の人たちの努力があって、日本の社会事業というのが発展してきたわけですが、戦後いろいろ法律ができて社会事業から社会福祉へと流れが変わっていきました。生活保護法や身体障がい者福祉法、児童福祉法など、法律が福祉三法とか福祉六法と広がっていき、国が保障して国が制度として色々な支援していくというように変わっていきました。今まで篤志家がセツルメントの中でやっていた活動が社会福祉制度の中で運営されていくように変わっていったわけです。

 これまでのセツルメントの理念でやってきた人たち、隣保事業をやっていた人たちの、全国的な大きな組織がありました。社会事業をやっていた人たちの集まりにおいて、昭和32年、「社会福祉、社会保障の時代になったから隣保事業はもうおしまいだ、歴史的にこれでセツルメントの役割を果たした」ということで、大阪で隣保事業大会があって、解散の宣言をしてしまったのです。

 それ以降、新しくできてきた施設やその施設長は過去のセツルメントの理念や精神について全然理解も知識もないまま、新しく出発してきている人たちですので、国や地方の自治体からのお金で仕事をすればいいという下請けになってしまいました。そして、それで十分だと甘んじてしまうということにだんだん落ち込んで余分なことをやらない、法律で決められてこういうことをすればこれでいい、それで十分だと全国的にサラリーマン化してしまったのです。「仕事は予算の範囲でやればいい」と、日本の社会事業家というのは90%以上そうなってしまったわけです。

 特に市町村や都道府県が直営している公立の施設というのは、まさにその通りになってしまっています。公務員が社会福祉をする場合には時間の中でしかやらないし、余分なことはやらない。余分なことをやるとかえって弊害が出てくる。民間でもだんだんそうなって、昭和30年代の後半から徐々に広がって、50年代60年代になると、それが蔓延化してしまったと言えます。

 大阪は先ほど申し上げた社会事業の発祥の地なので、セツルメントの過去に努力してきた人たちというのが戦後も残っていて、社会福祉の時代になってもまだ30年代40年代というのは、その人たちがかくしゃくとして活動していました。新しく制度が変わってもその理念を持ち続けて、努力してきた人たちが40年代頃まで第一線で指導者として存在していたというのが大阪の強みです。

 したがって私どもがそういう人たちの下でいろいろ学んできたということがあります。ずいぶん若い時代にその人たちから何かれとなく指導を受けてきたわけです。福祉とは何か、本当の社会事業とは何かということを肌で感じて学んできました。

 先ほど申し上げたように、隣保事業の全国組織は、昭和32年に大阪大会を開いて解散しましたが、そのときに大阪では大阪セツルメント研究協議会という組織を作り上げて、組織は残したわけです。そこにみんなが結集して学んだという歴史があります。その研究協議会がその後大阪市コミュニティセンター研究協議会になり、現在は大阪市地域福祉施設協議会になっています。地域福祉を志向するということです。全国組織は解体しましたが、大阪はそのまま残してきた。このように大阪では、セツルメントの精神を守ろうという強固な組織、志をともにする同士の集まりが脈々と生きているというか、今でも存在しているというところに、全国でも誇れる所だと思っております。
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<歴史に残る北市民館の事業>

 今、天六の「住まいのミュージアム」になっているところに大阪市の北市民館という建物がありました。セツルメントの有名な施設です。先程のセツルメント研究協議会の事務局はそこにありました。

 大正の頃のこと、天災が続いて米が高騰して、食べるものがなくなってしまった。富山か新潟あたりから住民の一揆が起こって全国に広がって、大阪でも起きたわけです。米屋の家が燃やされて米を奪う民衆によって、そこらじゅう火事が起きる、いわゆる米騒動です。そこで当時の大阪市長が救済活動するためにお金を持ってる人に頼んで基金を出してもらって救済に当たりました。その時の募金の一部を使って北市民館というセツルメントの施設を作ったのです。

 北市民館の館長は東大の経済学者で、世界のいろいろなセツルメントの活動を学んだ人で、大阪市長が抜擢した人でした。志賀志那人という人です。その人の著書を読みますと、銭湯にしょっちゅう行っては裸で地域の住民の声を生で聞いています。そこでは住民が困ったことや悩んでいることを率直に出します。住民はわざわざ館まで来てはくれないから、自分が町の中に入り込んで聞いて問題をつかんで館の実践に移すという優れた活動をしました。ロンドンのトインビーホールに匹敵するセツルメント施設だったんです。

 それは大阪の誇りとなる歴史的な建物だったので残さなければいけないものだったんですが、価値を知らない戦後の大阪市の役人は潰して、住宅の展示場みたいなつまらないものを建ててしまったと、いまだに言われています。なぜあの建物を大阪は残さなかったのかと残念に思っています。中ノ島の中央公会堂のように補強してちゃんと改装して残すようにしたらよかったのではないかと思います。非常に残念です。今、模型が西成の社会福祉研修情報センターの玄関に置かれています。

 このように記念碑的な建物が取り壊されましたが、大阪はいまだにセツルメントの精神を現代に適応して、それを貫こうとしている人たちもかなりあるということがいえます。
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<まず目の前の人の困難を助ける>

 私どもの仕事というのは対人間、対地域の利用者を相手に仕事をするわけです。例えば保育所であれば、両親が仕事をするために子どもを預かってほしいというのは当然です。普通の保育所であればそれで用を果たすわけです。それで十分だということになります。ところが一般の保育所はそれで済むけれど、子どもをよく見ながら保育をしていけば子どもにいろいろな問題が発見されます。

 問題というのは子ども自身が持っている問題ではなくて、社会福祉問題というのはみなそうですが、いろいろな関係の中で問題が生ずるわけです。その人個人が持っていることではないんです。我々が問題と思うことは、その人が生活する環境の中で作り上げられてきているわけです。その問題を解決し解きほぐしてあげるためには、その関係のところをきちっと理解した上で我々が援助して解決していく必要があります。その人を預かるだけでは何も役に立たない。

 保育をしていると、家庭の問題、親子関係、夫婦関係、地域との関係の問題というしがらみがわかってきます。親と共に考えながら援助していくということが当然出てくるわけです。それがわれわれの本当の仕事だということになってくる。しかし、その子を預かるだけで家庭や地域の問題を見て見ぬ振りをするというのが普通の一般的なやり方です。

 例えば保育所であればその子が5歳児になると小学校へ行く、卒園するわけです。卒園すれば「はいさよなら」で、我々の仕事はけりがついたと普通はどこの保育所でもなるわけです。しかし、その子は卒園して小学校へ行ったから立派に自立した子どもかというと、昨日までは一日保護されている子だったわけですから、そういうわけにはいかない。親はその子の全生活を守ってあげなければいけない立場ですから、仕事をやめようかどうしようかと悩むわけです。

 一般の保育所は、それは親の問題で自分たちの問題ではないからと、卒園したら「はい、さよなら」で、後は野となれ山となれということになるわけです。でも、親の生活を守るためには何とかしてあげないといけない。そうなると、学童保育の問題を考えなければいけないということになってくる。

 昭和30年代に大阪セツルメント研究協議会の会長をしていた三木達子という人を私たちは偉大な人だと思って尊敬しています。三木先生は「そこに社会福祉問題があれば、何を差し置いても取り組まねばならない。人や金は後から必ず付いてくるものだ」というふうに信念を持っておられました。だから何かが整ってお金もあって設備もあって、はい仕事しましょうではない。そんなことはどうでもいいから、まずそこに困っている人が居たら何を差し置いても手を差し伸べなさい。お金や人や設備は後から考えたらいいんだという、これがセツルメントの精神です。また、社会事業魂とでも言えます。私どもはそういうことで今まで仕事をしてきました。

 まずそこにいる人、人間が、何とか我々が手を差し伸べなければ困る人なのだという認識があれば、何を差し置いても自己犠牲があってもやるというところがないと、本当の社会福祉というものはいつの時代であってもできないだろうと私どもは思っています。これはどんな時代であっても人間と人間の優しさ、人間性というものが土台にある。それが我々の基本だろうと考えています。

 戦後いろいろな権利要求が強くなって、何でも役所にお金を出させる、役所にやらせるという傾向が強くなっています。憲法第25条で文化的な最低生活を保障するという条文があることは、それはそれで正しいことですし、日本全体の国民が幸せな生活を営む権利を有するということは必要ですが、では生活を維持して守っていくために、すべて役所や国にしてもらわなければ困るという考え方、「してもらいたい」「やってもらいたい」「それは権利だ」ということをとことんやっていくと、我々は何をするのか、国民はいったい何をするのかということが全部飛んでしまう。そこにはお互い助け合ったり、目の前の困っている人たちに何かをしてあげたりというものが吹っ飛んでしまう。全部受身で「してもらいたい」「してもらって当然だ」という権利だけが先行してしまう。その中には社会福祉の中身の発展というものはないわけです。国民全体がそうであるのと同じように、社会福祉をやる立場の人たちも同じような姿勢であれば、人間として支援していく活動というのはおそらく死んでしまうだろう。範囲内だけやればいいということになりますよね。法律で定められた決まりだけ、勤務時間の範囲内だけ自分は相手に対してやればいい、それ以上やれというならこういう保障をしてくれたらやってやる、それがなければやりませんということになる。この30年代40年代に始まった風潮が、平成の初期に入ってだんだん全国的に広がっていったと言えます。

 それがここ10年前から、皆さんも学校で学んだと思いますが、社会福祉の基礎構造改革というものが起きて、今の制度や理念が揺さぶられる時代に入ったわけです。そこでは共に生きる、共存する、お互いに助け合うという精神をもっと大事にしなければいけないということが、制度改革の中にひとつの理念として貫かれて、今躍起になって広げようとしています。反省期というか揺り戻しが今来ているわけですが、セツルメントの理念でやってきたものから見ると、当たり前のことを言い出していて、少しも私どもは揺さぶられている気がしない。原点に戻ったんだなという意識だけで、当然あるべき姿に全国的な揺り返しが起こっているというふうに理解しています。
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<日々の仕事を通して>

 今、申し上げたことが水仙福祉会の事業理念です。具体的なことは何も申し上げませんでしたが、ここまでやっているのはそういう意味かと、いろいろなことを現場の中で関係づけて理解していただくとよくわかるのでないかと思います。

 深い理念というものがわからないと仕事ができないということではありません。現場の中から思想や理念というものを逆に理解していくということも当然あるわけです。理屈が先ではもちろんないわけですから、そういう意味で問題を素直に捉えるという角度で、仕事の中での課題を掴むという意識を持ちながら仕事をすることが非常に大事だろうと思います。昨日やって今日もまた同じことをするというマンネリ化した仕事をしていくのではなくて、仕事の中で課題を掴むという、それがないとちっとも進歩しない。課題をどう解決するかということが次の活動の中に結びついていく。我々の仕事は常に生きているし、常に新しいという理解をしていただく。毎日毎日の仕事が新鮮ですし、毎日同じように見えていても一ヶ月あるいは一年の単位で見るとすごく違いがわかる。去年よりも今年、今年よりも来年はもっと違ったステップを踏んでいくんだという意欲が生まれてくる。是非そういう視点で、皆さんこれから是非がんばっていただきたいと思います。
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<補足>

松村昌子・総合施設長兼風の子そだち園園長

 私は若い頃社会福祉協議会に勤めていたのですが、そこに戦前の社会事業家のひとりである博愛社の小橋カツヱさんという方が度々来られていて、お話する機会がよくありました。そのときの小橋さんの言葉を私は忘れられないので、皆さんにお伝えしておきたいと思います。
 小橋さんが何かで表彰されることがあった。そのときに「私は月給もらってる役人から表彰なんかされたくないから断ります」と言われたのです。

 博愛社というのは非常に古い養護施設です。行き場がなくて街に溢れていた孤児たちを集めてその養護施設を始めたのが小橋さんです。「私は食べ物がないときに土地を耕して畑を作り、この子たちと生活をしてきた。食べ物からして全部自分たちで、地球を耕しながら子どもたちと一緒に生活してきた。それを月給もらってる役人から褒美などもらいたくない」というのです。それが非常に印象的でした。

 あるとき、「加藤さん(園長の旧姓)、私が何でこんなに元気なのかわかるか」というから何でしょうというと「私は養護施設の子どもたちと同じ、若い子のご飯食べてるねん。成長食食べてるから元気なんや」ということをおっしゃってました。博愛社の古い建物の、10畳くらいあったでしょうか、質素な部屋に、自分が結婚したときに持ってきたままの家財道具を置いて、そこだけで生活してこられた方でした。

 私たちもそうした古い社会事業家の影響を受けているということを皆さんにお伝えしておきます。

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